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家事をやると損なわれるもの

男女問わず家事を、一定以上の物量を休みなくし続けると、確実に心のなかにある大切ななにか、たとえば、人間らしい文化的営みへの情熱が損なわれる気がする。

家事労働それ自体は目的ではなく、手段でなければならない。目的は、美しく組織化・構造化されたライフスタイルの実践である。

しかしいつしかその目的は色褪せる。目的を実現するために手段をこなす営み自体に飽き飽きしてしまう。飽き飽きしてしまう。これに飽きたらどうなるか。手段としての家事が残るだけである。家事を終えることはいつしか目的になる。

数少ない知己のうち、類まれなクリエイティビティを発揮することができる人がいる。彼らは例外なく家事をやらない。

クリエイティビティを損なうだけではない。大切な家族を慈しむ気持ちにも、家事は黒い牙をむく。

子供や老人の世話をしなければならない常態の者にとり、家事の負荷が極まると、負担感は世話の対象者へのいわれなき憎しみに変わる。私は家事をしながら、ほんの僅かなきっかけでそうした家族への暗い感情を抱くことがよくある。

たとえば、この真夏に。生ゴミ袋が数日前にペールの中で破れており、その液体で手をビショビショにしながらその袋を有料ゴミ袋に移し替えたり、前日大変な苦労をして集積場に持っていった、重い埋め立てゴミが収集人のミスでそのまま残っており、次の収集は二週間先だったりすると、そうした暗い感情が頭をもたげる。

もちろんこうした感情を、為すがままに涵養するのは倫理上はもとより、理屈の上からもあってはならないことだ。生ゴミ袋の耐久性や、収集人のミスの一体どんなところに、愛すべき家族に帰責する部分があるというのか。一切ない。

それを打ち消す方策を、幸い私は知っている。それはひたすら寝るだけ。起きたときに、再び家事をやるエネルギーが体に回復していることを祈りつつ。

不妊に悩む女性の懸念と解決案

不妊治療でうまくいかないときに女性はアイデンティティ・クライシスに陥る危険もあるということである。そうした事態に立ち至りそうになった場合、どのような心持ちであれば心の安寧を保てるか考えてみた。

不妊治療には莫大なコストがかかる。もともと子供が欲しくて結婚したのだから、不妊治療への思いは察するに余りある。しかし、できないものはできないのだから、ここで気持ちを切り替えて別の目標を見つけるのがその人生で満足度を上げるには必要だ。

私の提案はずばりこう考えること。

「人類の半分=男は子供を産まないんだから、平気だ」

男は、子供ができようができまいが、じつはあっけらかんとしている。子育てに関心をもつ男性は増えてはいるようだが、ほとんどの男性はそうではない。子育てに関心があるふりをしているだけで、実際は、それ以外の「暇つぶし」(國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』あるいはパスカル著『パンセ』など参照されたい)で頭がいっぱいなのである。

もちろん、こんな考えは女として到底受け入れがたいと反論するかもしれない。ただ、その女=子供を生むという価値規範自体が今揺らいでいるのが現代だ。

ジェンダー規範、例えば性別役割分業を取っ払っていこうというのが先進国共通の方向性である。なぜなら、そもそも選ぶことのできない生まれた性別によって不利益なあるいは有利な取り扱いを受けるのは、人権上よろしくないからだ。

だから、女だから子供を産めなくてがっかりではなく、そもそも女以前に人である。人の半分は子供を産まない。だからなんてことはない。こう考えるのが自然だし理にかなっている。

女性の多くは、男性の暇つぶしをその後の人生のもっぱらのコミットメント対象として受け入れることは難しい。女性には女性の趣味ややりがいを見いだせる先があるだろう。それは個々の女性が自分で見つけることで、男の私がとやかくいう話ではない。

まあしかしせっかくだからいくつか。おすすめは法人を設立して、なにか世の中のためにプロジェクトを作って実行することである。人との折衝が苦手なら、もっぱら家の整理整頓などいかがか。家庭生活のオーガナイズは、意外と満足度が高い気がする。

小さないじめの芽を摘む

自分がやってる自習教室で、ある生徒がある生徒を執拗にくすぐるという事件が生じた。くすぐられた生徒はあとで、涙目で訴えた。もう教室に戻りたくないという。

管理者としては、小学校高学年なんだからもうくすぐるとか、人の体に触るとかは止めろといっただけ。人間には、不快に思う他人との物理的距離っちゅーもんがあると。その距離を無視して触ったりするのは、その人の快の領域を侵すことにほかならないんだよと。

事件後、二度とくすぐっていないことを確認し、二人の関係は元通り平穏となった。

なんだろう、この不毛な感じ?! いやーな感じ。

大体、なんでそんな人が嫌がるほどしつこくくすぐるのかがわからない。ネットで調べると、おしっこ漏らすまでくすぐってからかったりした事例が見つかった。ふざけているように見えるのがいじめの手段としてくすぐりが選ばれる理由かも。というか、なんでそういう行為に至るのか?そのいじめ加害者の動機が不明。

カネを盗んだりとか、死ねバカとか言うのはわかる。わかりやすい。でも延々、泣かすまで相手をくすぐって、ヘラヘラして悪いと思っていないというのは、ちょっと妖怪じみてて気味が悪い。その生徒、心療内科の専門家に見せた方がいいんじゃないか、実際。

『限界集落の真実』(山下祐介・著)を読んで

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東京に暮らす私にとって、日常があまりにもシステム化され過ぎていると感じる今日この頃。歯の治療を終えて、次回の定期健診のお知らせハガキは三ヶ月に一度と半年に一度をお選びいただけます、どちらになさいますかと訊かれて三ヶ月という。あーその間は何も考えなくていい。楽だ。
 一週間に一度は、何かしらの消耗品を切らして近くのサンドラッグに買い物に行く。レジに行列が出来れば、バイトはすぐに店内放送で応援を呼ぶ。バイトのメンツもだいたいおぼえた。消耗品が切れる→サンドラッグに買いに行くというのを10年くらいやってるがまさに自分がもう、システムの小さな数字になってしまったかのような陳腐感だ。
 こんなんでシステムにどっぷり使ってるから、いざそれが壊れると、東日本大震災の時みたいに、自分ではなにもできなくなってしまう。あの時はサンドラッグもやばかった。ティッシュだの、水だのが売り場から消え。ありえん。東京なのに。
 この本を読んで過疎の田舎はどんだけシステムから自由かなと現実逃避的に読んだ。
 …サンドラッグなんかなくたって、ケツ拭くのは手や水だからティッシュなんかいらない。歯も抜けるにまかせるから、検診のお知らせも来なくていいし、歯間ブラシだって存在すら知らない。水は沢を流れているのを飲むし…。そうなんだろうなー、的な。
 確かに、過疎では都会のようなシステムはないのだが、自然減(死亡が出生を上回る)と社会減(都会への人口流出)はとまらず、もう自分らの世代でこの地域はおしまいという諦めだけが、もっぱら地域の空気を支配しているらしい。
 滅びる我が身の人生への諦観か、システム化に絡め取られて自由を失ったストレスの多い人生か。
 人はみな死ぬのは怖いから、そこから目をそらして安穏と楽しくいられる気晴らしを求める。気晴らしの対象は、この都会では事欠かない。しかし、すべての気晴らしもいつかは飽きが来て、むき出しの死が砂上の楼閣のようなシステムの向こう側にぽっかり口を開けている。
 限界集落に生きるお年寄りには、死はどう映っているのか。彼らの気晴らしってなんだろう。個人的には、限界集落ツアーとか体験したい。でも受け入れ側の住民は面倒臭がるだろうな。僕の個人的な趣味、つまり退廃的なものへの美的感受性、廃墟大好き趣味なんか、限界集落の住民連中は理解しないだろう。
 この本は、おなじみの中央と…

発達障害児の支援とは

実行しないとその子の属する集団の秩序がめちゃくちゃになる、発達障害児の支援とは要はそういうこと。一人の発達障害につき、一人のサポートスタッフが必要。

発達障害児はサポートスタッフがいない時、次のような行動を取り始める。
声を出す身の回りのもので音を出す椅子や机をがたがた言わせる立ち歩く こういう症状が出たら親はすぐ、要支援の発達障害児と子を認め、自治体に支援を要請すべきである。親によっては子が発達障害であることを受け入れず、現実を直視しないままいたずらに時間がすぎることもある。それは親、子、社会の三者にとり有害である。

そういう親の典型が石原都知事だろう。だいたい都知事は、こういう子供が公立の学校にあふれているのにもかかわらず、大した施策もせずに(全くしていないとは言わないが、足りない)、どうでもいい島嶼部を買う買わないと騒いでいる。

発達障害児を早くに認識し、社会全体でその子の人生をサポートしていくことがとにかく、何より重要だ。

作文教室 得られた教訓

いろいろなお子さんがいらっしゃるので、個別に、きめ細かく支援していくことが非常に重要だとわかった。

子ども(生徒)のことを詳しく知る、知り続けることで、自分も成長して、人生を有意義なものとしてまっとうする。教育活動というのはそういうことである。

もちろん子どもが優秀な成績を収めるとか、いい大学を卒業するとか、そういう側面を親は期待するかもしれない。

しかしそういうことはもはや私の教室ではまったく重要ではない。

作文は一朝一夕ではうまくならない。