『限界集落の真実』(山下祐介・著)を読んで


 東京に暮らす私にとって、日常があまりにもシステム化され過ぎていると感じる今日この頃。歯の治療を終えて、次回の定期健診のお知らせハガキは三ヶ月に一度と半年に一度をお選びいただけます、どちらになさいますかと訊かれて三ヶ月という。あーその間は何も考えなくていい。楽だ。
 一週間に一度は、何かしらの消耗品を切らして近くのサンドラッグに買い物に行く。レジに行列が出来れば、バイトはすぐに店内放送で応援を呼ぶ。バイトのメンツもだいたいおぼえた。消耗品が切れる→サンドラッグに買いに行くというのを10年くらいやってるがまさに自分がもう、システムの小さな数字になってしまったかのような陳腐感だ。
 こんなんでシステムにどっぷり使ってるから、いざそれが壊れると、東日本大震災の時みたいに、自分ではなにもできなくなってしまう。あの時はサンドラッグもやばかった。ティッシュだの、水だのが売り場から消え。ありえん。東京なのに。
 この本を読んで過疎の田舎はどんだけシステムから自由かなと現実逃避的に読んだ。
 …サンドラッグなんかなくたって、ケツ拭くのは手や水だからティッシュなんかいらない。歯も抜けるにまかせるから、検診のお知らせも来なくていいし、歯間ブラシだって存在すら知らない。水は沢を流れているのを飲むし…。そうなんだろうなー、的な。
 確かに、過疎では都会のようなシステムはないのだが、自然減(死亡が出生を上回る)と社会減(都会への人口流出)はとまらず、もう自分らの世代でこの地域はおしまいという諦めだけが、もっぱら地域の空気を支配しているらしい。
 滅びる我が身の人生への諦観か、システム化に絡め取られて自由を失ったストレスの多い人生か。
 人はみな死ぬのは怖いから、そこから目をそらして安穏と楽しくいられる気晴らしを求める。気晴らしの対象は、この都会では事欠かない。しかし、すべての気晴らしもいつかは飽きが来て、むき出しの死が砂上の楼閣のようなシステムの向こう側にぽっかり口を開けている。
 限界集落に生きるお年寄りには、死はどう映っているのか。彼らの気晴らしってなんだろう。個人的には、限界集落ツアーとか体験したい。でも受け入れ側の住民は面倒臭がるだろうな。僕の個人的な趣味、つまり退廃的なものへの美的感受性、廃墟大好き趣味なんか、限界集落の住民連中は理解しないだろう。
 この本は、おなじみの中央と周辺論も登場。社会学者が書いた本だから。中央にいる者(おもに官僚)には、地方は見えないとか何とか。そういうことは興味が無い。そんなの論じたって、誰かが言ったところで、もう政治は耳をかさないんだろう。お説ごもっとも。「しっかり」対応していかないといけないって言うだけ。
 そういうどうでもいいこと(言うだけ不毛なこと)じゃなくして、もっと限界集落の写真を見たかった。えーこんな酷道を延々走ってやっと到達すると、こんなところに人住んでるんだー、って興奮させて欲しかった。あー、だったら新書なんか読まずネット見てろって話だね。







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