宮崎監督の反原発デモ@梶野町

先日のこと。家のそばを自転車で走っていたら前から大勢の大群が道いっぱいに押し寄せてきた。蜃気楼かと思ったがまぎれもなく現実だ。

先頭にはジブリの宮崎駿監督。原発反対の看板を掲げてる。大勢の若者は、ジブリの社員だ。プラカードを持っている人もいる。みんな和気あいあいと歩いている。楽しそうだ。

うわーまたジブリが反原発デモやってる……。しかもうちの至近で(うちは、小金井市梶野町のスタジオジブリの真裏に位置する)。前回は犬と、ひとりかふたりの社員、それにカメラマンがいたが、今回はカメラマンがみえない。人数はとんでもなく増えたが。今回もまた、前回同様、広報誌の表紙用だろうか?

私はデモの意味を理解しているだけに、非常にいたたまれなくなった。なぜならデモというのは政治的主張を示威する表現行為であり、それを実際に見たり、メディアを通じてみた人が、そのメッセージの受け手としてまず想定されているからだ。

デモをやる側はきっと、一般市民がいたら心中に起こるであろうざわめきを想像して「ウホッ」て思っているに違いない。宮崎さん筆頭に。あーもうそう思ってるよ絶対。よりよって僕ひとりだよ。

そういうことが一瞬で想像されてもう恥ずかしくて恥ずかしくて、正視できず、なるべく道の端を走って通過しました。その道をその刹那歩いていた一般市民側は私ひとりで、あと全部、数十人くらい、全部ジブリの人たちでした。まるでそれは、ジブリ劇団の演目「反原発」を、狭い芝居小屋の客席でたったひとり見せられているようなバツの悪さでした。

今日も、こんなことがあった。先頭は、鈴木プロデューサーと宮崎氏。後ろを5人くらいの社員がぞろぞろ。そういうのと普通にすれ違う。全部よく日テレとかNHKでやるドキュメントで全国的に顔が知られた人々である。で、一般ピープルは私だけ。いやいいんですよ全然。そういうこともあるでしょう。でも、そういうのが一週間に一回とか二回、もう十年近くあるとなるとどうでしょうか。

きっと、向こうだって、私のことをやたらと見る近所の一般人だと思って顔くらい知っているだろう。とにかくその頻度の多さというのが合理的な頻度を超えて多い。

この妙な気まずさというか、知ってるんだけど知らない、でも頻繁に顔を合わせるということの何とも言えない居心地の悪さ、不安定さ。これって哲学の契機になるんじゃないのか? もしや。

というか単に疲れます。そしてジブリとは一切関係がなくてよかったと毎度思います。下手に関係があるといちいち挨拶しないといけないわけ。私は、道の向こうからやってくる浅い知り合いと挨拶するのがとても苦手なので(むしろそれって得意な人がいたら教えてほしい。プロ挨拶師!)。

このブログも、毎度知り合いばかり十人くらい見る、わびしい過疎村なワケだが、宮崎監督が訴えている主張(反原発)には私はものすごく共感しているので、きわめて非力ながらメディアとして触れた次第。いやーこれでメディアを標榜するのもホント恥ずかしいんだが。

そう、反原発ですが、国民の多くが望む原発ゼロ。私がそれを願う理由はやはり、怖い使用済み燃料のどうしようもない行き場の無さ。あと、日本の優秀な人々が原発や石油ではなく、太陽光とか、自然エネルギーをうまく活用するすばらしい技術を作り出し、それを世界に広げ、人類の、地球に優しい持続性ある文明の進展を牽引してもらいたいという夢を見ていたいから。

しかし、まあモーリー・ロバートソンもいっていたが、結局私もある種のアパシー(無気力)に囚われてる変な日本人の一人に過ぎないだろう。

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