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自家焙煎のコーヒー豆店の豆を買って飲んでみる

自家焙煎店のコーヒー豆店のコーヒー豆を買って飲んでみた。出かけた先は武蔵境のなつみ珈琲店。ブログもあるから、拝読してから行けば興趣も深まる。

モカ系の酸味がある、あまり深煎りではないものを求めていったのだが、この店は深煎りが中心。あれがいいこれがいいといった話を店主としていたら「どこにいるの」と仕事場から所在確認。

他の用事も済ませて慌てて帰ってくる。買ったのはグァテマラ、100g720円。

で、一杯70円ほどについたその豆を今しがた、ドリップで入れて飲んでみたのだが満足。熱いコーヒーはいうまでもなく、冷めてもまったく雑味がなくて美味しい。何杯でも飲めるし、いつでも飲める。

場合によっては卒倒するほどにまずい(実際には卒倒したことはないのだが)缶コーヒーに比べるとこうしてブログのネタにもなり、コストパフォーマンスはかなり高い。

これからも折をみて買いに行くことにしよう。

さてこの一連の行動の記録がなぜ、哲学にまつわるのかというとまさにコーヒーを飲む行為こそ哲学的な営みではなかろうか。というよりもむしろ、他にどんな学問が当てはまるかわからないので、とりあえず便利に哲学といってみた。

私にとって、リトルカブで気軽にコーヒー豆だけを買いに、昼間外出するというのはかなりな冒険だ。これほどまでに私にとり、自由に外に出る時間というのは限られている。なぜなら日々の家事育児、そして仕事が・・・ほら、考え始めた。哲学っぽくなってきた。人生にとっての幸せって何か? 生きるとは? 今日はその答えは、満足行くコーヒー豆を求めてバイクを走らせる喜び。みなさんはどうだろう。

電子書籍のデメリット

私は蔵書数が数百冊、年間の単行本の読書数も少なくとも月に1 、2冊程度である。もちろんこれは多い少ないは相対的な評価になるのでなんとも言えないが、本好きを自認している。

読む本は社会、経済、哲学思想など、フィクションを除く人文系である。歴史物も読まない。だいたい海外のジャーナリストや学者が書いたものを好んで読むかも。そうすると出版社としてはダイヤモンド社、NHK出版、日経、新潮、河出、NTT出版、東洋経済あたりが多くなる。

本の形態としては重くてかさばるハードカバーの単行本が多い。

こんな私はだいたいアマゾンのマーケットプレイスで安く買う。電子書籍はソニーのリーダーを試して以来、まったくやらない。電子書籍のデメリットを私なりにまとめてみた。

機械だから壊れるし、データもいつまでダウンロードできるかわからない。置いたストレージだっていつだって壊れて消える危険がる。そんなリスクが読書という体験とは関係ないストレスをもたらしてうざい。端末も新しくなってしかも価格も安くなり、不愉快なことこのうえない。画面で読んでると、一体本の何ページまで読み進んだのかわからず、達成感はまるでない。ページの端を折れない。私は、重要なところとか、後でネタで使えそうなフレーズのあるページの端を折る癖がある。それができない。EPUBだの、なんだの、形式があれこれあって馬鹿げている。トイレで読めない。トイレに置きっぱなしにしている本もあるため。絶対に読みたい本というのはたいていマニアックだったり古かったりしていて、電子書籍化されていないことがほとんど。電子書籍化されている本のほとんどがライトノベルとか馬鹿げた自己啓発本、儲からないビジネス書、漫画のたぐい。本当にこれ、という本は一切ない。後で読めない。単行本なら買って、部屋に置いておきさえすれば常に一定の存在感を放ち続け、そろそろ読んでみては?と背が語りかけてくる。電子書籍はデータなので見えなくなって忘れたらそれっきり。 そんなところ。何百年も続いてきた単行本で読むという経験があっさり覆るほどの魅力はまったく感じないのが電子書籍である。

皆さんのなかで、もしまだ電子書籍を体験したことがない人は、むしろラッキーだ。そんなものに金を投じるくらいなら本の1冊2冊買ったほうがよほど幸せな気分になれる。これは間違いないだろう。

そして、保管場所がないので、やむ…

『アメリカン・デモクラシーの逆説』渡辺靖著を読んで

渡辺靖氏の著作を読むのは二冊目である。アメリカの現代社会が、緻密で丁寧なフィールドワークで活写され、分析や得られる教訓はとてもよい。

『アメリカン・デモクラシーの逆説』(岩波新書)もまた期待を裏切らない、力作。オバマ大統領が誕生する背景。ゲーッティッドコミュニティ、教会、貧困など現代アメリカの状況の一端を知ることができて有意義な読書体験だった。

私はアメリカが大好きなのだが、こういうふうに無邪気にいえる立場にあることが、じつは幸運だということもまた知っている。

神に感謝しないと。とはいえ無神論なので、渡辺氏に感謝しよう。

禅と家事

NHKテキスト「トラッドジャパン」2012年11月号によれば、比叡山永平寺(厳しい禅の修行で知られる)で修行する200人の僧の1日のスケジュールは、朝四時の起床からはじまる。

朝四時に起きると壁に向かって3時間の座禅。「有数の高僧」を調理長とする9名の厨房専任僧(座禅も獨協もしない)がこしらえた精進料理の朝食。メニューは玄米の粥(おかわり可)、香の物、胡麻塩のみ。

そして食後は、自分の食べた皿を少量の水のみで洗い、あとはもっぱら境内や建物の掃除を行うのだ僧(そう)。

掃除などの作業は、禅の修行において特に大切にされ、「動く座禅」といわれている。開祖・道元は日常の営みの中にこそ禅の心の本質があると説き、これに真剣に向き合う環境として山深い寺を開いた。

これを読んで私はギョッとした。僕こそ、禅の修行僧だ。

主婦なら知っているだろうが、主婦の生活はまさしく禅僧。私もそうだ。

まず朝は6時半に起きる。すぐに、ベットで子供たちを起こす(起きてー起きてーと、いうことが毎日変わらないという点でお経である)。その後、食事したあと自分で皿を洗い、あとはひたすら家事。そのあとやっと、仕事らしい仕事がはじまる。私の仕事は上司のいない社長業。社長業はほとんどが非定型的な雑用ばかりで、これは修行とはまったく異なる活動だ(ただし私の場合、経理、ウェブ更新、文字校正など定型業務も非常に多い)。ここだけは僧とは異なる。

しかし、仕事のあとは再び家事が待っている。禅の時間のスタートだ。

とにかく、暮らしていると家事をしなければ、家はどんどん汚れて、生活も健康も損なわれるのが自明の理である。どんなに欲望を花開かせても、家に帰れば家事をやらないといけない。だったら欲望なんて持たずに家事をやって暮らせばいい。欲望を持つこと自体がむなしい。家事がむなしいんじゃなくて。これって、何もそんな偉い僧が、どっかの寺にこもって「修行」しなきゃならないほどのことではなかろう。ちょっと考えれば分かりそうなものだが。

ああでも、私もそうだが、この無為で、むなしい営みを続けていくうえでは、どうしても行為に「意味」が必要になってくる。人間、無意味こそもっともつらい。ナチスドイツのユダヤ人拷問でもあった、午前中に掘らせた穴を埋め戻させる作業を毎日永遠に続けさせるというのが。結局家事労働もそれに近い物がある。

私の苦行のやり過ご…

家が家電化している

昔、家、建物といえば数十年、数百年はもってあたりまえの資産だった。文字通りそれは不動産だった。ところが最近は、家がもって十年(ただし津波や地震が来なければの話だが)という風情である。

もちろん、基礎、柱、梁といった筐体はまともな会社が建てたものなら数十年は持つ。ところが、なかで暮らす人間に接する部分、インテリアや住設機器の寿命がとても短くなっているように思える。

というか、昔の家にはなかった住設を最近の私たちがどんどん取り入れ始め、それらの機器の寿命が最初から短いということなのだ。

私が最近これを痛感したのは、風呂をリフォームしたから。リフォーム前はタイルの風呂だった。20年近く経ち、タイルのひび割れなどから水漏れして、柱の一部が腐ってしまった。それでリフォームすることにした。

数十万かけて導入されたTOTOのサザナというユニットバスには暖房乾燥機がついていて、その機器の表示に、「もって十年です」みたいなことが最初から書いてある。メーカーとしては、いつまでも使い続けられて、一時期問題になったヒーターの回収事件(何十年も前のヒーターが発火する危険が発覚してメーカーが回収したり修理することとなった事件)のようなことは二度と御免被りたいのだろう。最初から十年と期限を切り、それ以上の安全性は担保しないと最初から宣言するようになった。

乾燥暖房機だけではない。風呂本体だって、プラスティックやFRPにあれこれ塗ってるだけだから、それらが経年で剥げてくれば、最初はピカピカツルツルの風呂も、薄汚れてくるに違いない。十年経ったらまた風呂を全部取り替えないと、メーカーが想定する商品が人にもたらす満足度を担保できなくなるのである。

さらにもう一点は、屋根の事だ。リフォーム番組などでは、家の外観をモダンにするためにガリバリウム鋼板が採用されることが多い。屋根は瓦ではなくスレート葺きややはり鉄材のものが多い。これらは、十年経ったら必ず塗装して手入れしないと、劣化が進んで、雨漏りを引き起こすのだ。

いちいち、屋根や壁の補修のために家に足場を組んで塗るとなれば、十万円単位で金が吹っ飛んでいくに違いない。

住設はとても便利だし、ガリバリウム鋼板や太陽光パネルなど家につけて利便性を享受するのは悪い気はしない。しかし、そういうことをどんどんやっていくと、あとで金がどんどん出ていくことになる。

家の近…

「意志の力」が減っていく理由

長年考えてきたことで、何となく理由が「そうなんじゃないか?」と分かった気になりかけていた問題。それは三日坊主や、飽きっぽさといった私のキャラクターにまつわる長年の悩みへの回答。Wiredのページで見つけた。
TechnologyCultureBusinessMagazineWiredvision NewsLong StoryMind Hack top - Science - News 「意志の力」が減っていく理由
ジムに通うぞという立派な決意が、仕事でいろいろと大変なことがあった日には弱まってしまうのはなぜなのか、考えてみたことはあるだろうか。

その理由は、意志の力というものは、物語のコンセプトのようなものではなく、自動車のガソリンのようなものだということにある。つまり、その量を測定できるようなエネルギーであり、使えばなくなって行く消耗品なのだ。

フロリダ州立大学の心理学者ロイ・バウマイスターは、これを「自我の消耗」と呼んでいる。同氏はこの現象を、焼き立てのチョコレートチップ入りクッキーをのせた皿の隣に学生を座らせることで証明した。

学生たちのうち、ひとつのグループはクッキーを食べることを許可され、もうひとつのグループは我慢するように命じられた。その後、両方のグループが、難しいパズルを完成させることを求められた。

クッキーの我慢を強いられたグループは、「我慢の蓄え」がすでに消耗しており、新しい課題を与えられるとすぐに投げ出した。一方、意志力を保存していたと見られる、クッキーを食べたグループは、パズルに対してより長い時間取り組んだ。

ほかに、意志力はグルコースで補給されるとする研究が複数ある。このことは、体重を減らそうとしているのに、その決断が消えてしまう理由を説明する手がかりになる。つまり、食べ物を食べないでいるとグルコースが減少し、それに伴って意志の力も減少していくのだ。「食べないでいるためには意志の力が必要だが、意志の力を得るためには食べることが必要なのだ」と、ジョン・ティアニーは言う。同氏はバウマイスター氏と一緒に、『Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength(意志の力:人間の最も偉大な強みを再発見する)』という本を出版した人物だ。

しかし研究者らは、意志の力をコントロールする方法も…