家事労働の哲学

哲学者の内田樹が家事労働をこう言っていた。
人間の世界がカオス状態に落ち込まないように、ジリジリと毎日数センチずつ、崖っぷちで押し戻す労働。この労働には社会的評価も、報酬も、そして達成感すらない。
放送大学の公共哲学の授業(2010年 田中智彦 第10回)で聞いた又聞きだが、大変共感しながら聴いた。この講義では労働の公共性についての話だった。人類はもともと、労働を媒介に自然から人へ、食べ物の贈与を受けてきた。

自然から人への贈与が一次産業なら人から人への贈与はサービス産業である。 では、家事労働はどこに位置づけられるかというと、それは人から人と自然から人への瀬戸際に位置する。

自然状態のカオス圏に巻き込まれないように、人世界の瀬戸際で踏ん張る。その労働は、全く報酬がない一方的な、人から人(例えば家族)への贈与である。

確かに。皿を洗わず放置すれば、自然界からハエやバイキンがやってきて、ひと世界の衛生を脅かす。だから、皿を洗うが、その行為は同居親族への贈与という建付けがピッタリだ。感動的な、まさに哲学的な見立てだ。

家族は、家事労働従事者のおかげで、日々健やかに人として、文明生活を送れる。それは、日本の憲法が保証する生存権の保障とも関わってくる。家事労働なくして、生存権の行使などまずはおぼつかない。

そういう家事労働だが、親子という関係で見ると、親が子の世話をするということは、家事労働を親が子に贈与するということだ。子は、親から贈与を受けるが、それは債務の性格を帯びる(本当は贈与だから債務は発生しないんだが、気持ちの問題として)。

子が親に恩返しをするのは当たり前だが、その自明性はこうした家事労働を通じた贈与に担保されていた。

もし、子が親に対し感謝しないのであれば、親は親として十分子のために家事労働したのかどうか。それが足りなかったり、欠けていた疑念が生じる。

先進資本主義経済のもとでは、すべてが商品化されている。子は、親からの贈与の受け手である認識を形作る暇もなく、まず消費者として、メディアによって徹底的に洗脳される。すると、子は親の労働を、金で代替可能な商品とみなすようになる。自分は無関係で、やりたくないものとして。

まったく残念だ、それって。しかしかと言って、もはやこの流れは抗することはむずかしい。

とはいえそれでも、まともな親は、テレビを見せず、ゲームや馬鹿げた雑誌(いわゆる資本主義社会における広告媒体)に晒さないよう気を配って子育てしている。せめてそうすることが、子に親の家事労働の贈与性に気づかせて、将来の恩をこの内面に涵養するささやかな方法といえそうだ。

家事労働は無報酬。それ故帯びる、贈与という性格。あげるひとと、もらうひと。そのあいだに生じる関係について、考えを巡らせることが家事労働の哲学の始まりである。そういう思考をしないことには、家事労働はこの商品資本主義のなかで、面倒だから金でやらせる的な欲望に押し流されて、結局女性みたいな社会的な弱者に押し付けられたまま、気がつけば人類は人心の荒廃に悩むことになるだろう。

で、家事も全部女性に押し付けるか、親にやらせっぱなしにしたまま、大人になって、なんとなく人生に虚しさをおぼえて(たいてい虚しさは覚えるものだが)、慌てて比叡山延暦寺に修業に入ったとしても、そこでやらされるのは読経のほか、結局は掃除、つまり家事である。さすが、歴史ある寺は家事の本質を分かってるな。

まあ、そうなる前に、家事は自分で、家でやれってことだが。

※私は、この文章を、「家事は大事だから、黙ってやるべきだ」と為政者や外で稼ぐ能力のある男性(家父長)が女性を家事労働に閉じ込める方便に使って欲しくない。そうではなく、すべての人間の活動の中心に家事を据えることで、初めて女性の人権や、環境、エネルギー、そういう問題が見えてくると言いたい。哲学は考える作法のことであり、家事は今こそ、家事とは縁のないひと(男や、杉並区の保守系議員など)が哲学と出会うとても身近でいい機会になった。私は極端な話、原発が爆発したのも、全部男が家事を女性に押し付けてきて知らんぷりを決め込んだせいだと思っている。政治家や政府、東電は、家事から目をそらすうちに、原発のしたの活断層や津波からも、容易に目をそらすことができるようになったんだ。まさに自然のカオスが人間の世界を破壊した。家事労働だけが、それを止めることができたのに、そのことを知らんぷりしてきたから。

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