2013年6月26日水曜日

趣味は読書

子供の学歴を左右するのは、よく親の経済力と文化資本といわれる。文化資本とういのは、おもに親の蔵書のことである(もちろんほかにもある、要は親の蔵書に象徴される、親のゆたかな教養とか、家庭の知的な雰囲気である)。

私がラッキーにも生まれた家は、経済的にも比較的、そして文化資本でいうとすこぶる、恵まれていた。ところが、私は怠惰だったし、社会的な義務感から逃れたいという気持ちが強かった(中央線の朝のラッシュで通勤して定年まで一社に勤めるのはゴメンだった)、引き継いだ大量の文化資本、つまり父親の蔵書を持て余すようになった。

父が8000冊の本を残して死んだのは2002年の憲法記念日だ。12畳もある巨大な父の書斎の半分は、大学の図書館にあるような移動書架が6基鎮座していた。残りの半分は、腰の高さまですべて本が積もっていた。だいたい、8000冊というと、6畳ほどの部屋が、床から天井近くまですべて本で満杯になるくらいの量だろう。膨大な本に、かなり最近まで畏怖の念をいだいて、捨てたり、無造作に扱ったりするのはよろしくないと思っていた。ところが、本を保管するのに、この中央線沿線では年間数十万円のコストがかかる(6畳ひとまのアパートを借りるのにいくら掛かるかを考えればわかる)。

本を使って何か収入が増える活動をするのならまだいい。大学教授とか、ライターとか作家とか。しかし、私も母も、残念ながらそんなのではない(じつは父もそんなのではなく、単に趣味で集めていたのだから腰が抜ける)。保管維持コストが、家計にボディブローのように効いてきた。

膨大な蔵書が家計に与える悪影響が決定的になったのは、2004年に家計の計算の専門資格であるファイナンシャルプランナーに合格してから。いったいこの本というのはマジ、やばいんじゃないか、これに殺されるぞと思うようになった。こんな本を抱えていたら、そんな家は、潰れるぞと。重さと、そして経済的な負担で。まあFPにならずとも、月次の保管維持コストが出ているわけだからエクセルでやればすぐわかるわけだが。

というわけで、母と私で、2008年ころから、本を捨てるプロジェクトが始まった。本は、父が亡くなってまもなく、家のリフォームのために全てダンボールに入れて、近所の古い木造賃貸アパートの一室に保管されていた(そのリフォームでは巨大な移動書架も撤去した、百万ちかくかかった)。ひとつのダンボール箱にはおよそ30-40冊近くの単行本(ハードカヴァー)が入っている。ひとつ10キロ近くの重さがあって、めっちゃ重い。台の上に、本を積み重ねて、相続人である母が仕分けする。母も高齢なので、作業自体独特の辛さが漂い、必ず抑うつ状態に陥る。理由は簡単で、結局、素晴らしい本があったり読みたい本が見つかっても、数が膨大すぎて、結局読む前に母の寿命は尽きるからだ(わたしだってそうだ)。

古いアパートの一室で、一箱ひと箱開けては、捨てる本、保管する本、売る本、自炊する本に分ける。親子、黙々と取り組む、喪の仕事である。

ダンボールの数は、合計400個近くある(全部が全部本ではない)ので、作業はもはやレ・ミゼラブルの最初のシーンに出てくる、「Look down, look down」的な、あの気の毒な囚人たちの労働のおもむきである。つまり、懲罰的な意味以外にいかなる意義も見いだせない。

意味がないばかりか、人体に露骨に有害ですらある。古い本は茶色く変色し、カビ臭が部屋に立ち込めている。カビは体にいいはずがない。したがって、作業はかなり厳重なマスクをして行うこととなり、息苦しく、体力を奪う。意義の見いだせない作業を、原発作業員のような息苦しさの元、行うわけだ。

しかし、この地獄の労働を終えないことには、今後もこの膨大な資源ごみを保管するために毎月数万のコストを払い続けなければならない。そんなことは、今の私には到底許されない。もはや家計は限界に近く、一刻も猶予も争えない。

父が死んで以来、8000冊の本は常に私の暮らしに重い影を落としてきた。毎月毎月、保管しているアパートの家賃を振り込む作業はとりわけ、本の存在を忘れえぬものにした。一体何のための金なんだろうかと。もはや一刻も早く、一冊残らず捨てるか、きわめて稀にある私も読みたい本は電子化して、処分しなければならない。そうしなければ、私のこれからの人生はもうないと思って間違いない。

ここで、読者のために、私が見つけた一つの真理を解き明かそう。最初に文化資本の話をしたのだが、あれは馬鹿げている。文化資本があるから子供の学歴が高いのではなく、学歴の高い子供は、たいてい文化資本に恵まれているにすぎない。それぞれに因果関係ってない。

親から、頭のいいDNAを引き継いでいれば、子も学歴が高くなる。じつにあたりまえの、それだけの話しである。親の顔が子に似る、それくらいあたりまえだ。本なんて、全く関係ない。

なんといっても、私がその証拠だ。じつは私は生まれてから40歳の今日に至るまで、家にあった父の蔵書8000冊のうちわずか数冊しか読んだことはない(大学は文系では難関とされる早大文学部で小論文書かないと合格しないところだったにも関わらず)。何を読んだかあげよう。以下、わずかに5冊しかないから、簡単に挙げることが出来る。

『有閑階級の理論』(ヴェブレン)
『ウォール街のランダム・ウォーカー』(バートン・マルキール)
『ティム・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(著者しらん。なぜか、これだけは読めと異様に勧められた。いまだに真意不詳)
『夜と霧』(著者しらん。口絵の写真が怖すぎる)
『善悪の彼岸』(ニーチェ)

しかも、読了したのはこのうち『ウォール街のランダム・ウォーカー』一冊だ。『善悪の彼岸』はたまたま大学の専攻が西洋哲学だったため、たまたま家にあったから卒論で使っただけ。

これだけの文化資本に恵まれながら、ほとんど読まなかったにも関わらず、小さい頃から作文は非常に得意で、読書感想文とか、大学の論文も常に高評価だった。

最近は、理系じゃないとまるで評価されない。いくら文を書くのが得意ったって、こうやってネットに書き散らしてせいぜいウサ晴らしするだけで、いいねボタンすら押されない。

ところで、そうと意識したことはないが、私の趣味は強いて言うなら読書?かもしれない。本が増える一方だからだ。幸い子供に迷惑はかからない。なぜなら今後蔵書を順次電子化して処分するつもりだし、最近はほとんどkindleで読んでいる。

2013年6月22日土曜日

映画『レ・ミゼラブル』今夜視聴へ

私が。ひっさびさに見た映画だが思い出した、高校時代に私は帝劇でミュージカルを見て、世界史を選択しようと思ったんだ。レ・ミゼラブル

1990年ころのことである。農協のババアの団体の私語(「アレアレ、野口五郎!」「えっ?どれ?」etc.)を、間違って来てしまった意識高い系の男性サラリーマンが「シーッ」とたしなめてたのが高校生の私の目に新鮮でした。帝劇なんかでミュージカル観るんだったら、今時の皆様は、皇居の周りをマラソンですね。

つくづくダサいのだが、あれから23年。Amazonで3月ころ頼んでおいたのが届いたので、1人で見ましたよ。

ちなみにレ・ミゼラブルは今から200年くらいまえのフランスの出来事をモチーフに描かれた歴史小説?大河小説?みたいなもの。

フィクションなだけにドラマチックすぎてヘトヘトの2時間半。かなりリアルなのに突然歌い出すってのもどうにも。ミュージカルだからあたりまえだが。深夜に見終わっておねしょした子供の布団の処理でまた床這いつくばり。レ・ミゼラブルを地で行ってるな。相変わらず。

で、エポニーヌ役のサマンサ・バークス(1990年マン島出身の女優)様がもう神。画像いっぱい貼ってみようかね。いやだめか。リンクだけで。Wikipedia

サマンサ・バークスは、写真によってはレオナルド・ディカプリオの若いころに似ている。あの手の顔、つまり、エクボがあって口がデカい、多少エラ張ってる、に私はどうやら弱いようですな。

で、映画の感想だが、面倒だな。「ザ・みじめ」というタイトル通り、人間のあらゆる不幸が満載。殺人、窃盗、暴行、収監、自殺、いじめ、ブラック企業、児童虐待、DV、人身売買、子捨て、悪衛生、病気、死亡、失恋、売春、格差社会、貧困、成功しない民主化運動やデモ、若者の不幸、女性の不幸、成就しない恋愛、単純労働、失敗する就活、非正規雇用。全部あります。

ひどさが半端ない。二百年後の先進国で生まれたことを、神に感謝(こういうの見るとやっぱり憲法を変えちゃいけないってしみじみ思うんだが)。

Youtubeで見つけました。


余談だが、バークス嬢の出身地である「マン島」のちかくにジャージー島というのがあってですな。一帯はタックス・ヘイブンといって、私のような庶民には無縁のなんやかんやあるんです。で、私、2001年ころにそこにある某Santanderという銀行に7500ユーロを預けたはいいが(当時、「ゴミ投資家」のあいだでそういうのが流行った(泣)、その後英語が話せないのでにっちもさっちもいかないまま塩漬けになっているのは秘密です。

22歳。これから太るかもしれんがそこもまたいい。



最後は、彼女による映画レ・ミゼラブルのセットのツアーです。

2013年6月21日金曜日

子供の貧困対策法成立、衆参全会一致で

子供の貧困対策法が成立した。非常に喜ばしい。

こうした法律が通って、きちんと有効な数値目標が定められ、貧困解消具合を可視化出来る指標が永続的にチェックされるのであれば、私は消費税は15%とかになってもいいと思う。

もちろん、その前に相続税や、健康保険税の上限撤廃などマジで痛い税改革を経てからだが。

そして私は、消費税は法人としては払えない法人は払う必要が無いようになっているのだから、これからも積極的に本則課税で命がけで計算し、輸出大企業が全部やっている還付請求していくことは変わらない。

話を戻すが、子供が貧困状態にあるというのは、これは社会的に最も痛い事象と考えていい。自分も子供を持ってから思うが、自分の子供や、子供が連れてくる友だちがもし、貧困状態にあったらと思うと、非常に切なくなる。正直、そんなの嫌だ。

子供を貧困のままにしておくと後で治安対策とか雇用対策でとんでもないコストがかかる。そりゃそうだろう。ギャングとかグレられたりしたら警察コスト、収監コストもバカにならない。そんなふうな成人を少なくするには、小さいうちから貧困による各種の機会喪失を是正すればよい。イギリスは貧困対策のコストは後でそれをしなかったコストより相対的に割安に済ませられるという計算のもと、この法律のモデルとなる法律を施行している。

私は子供は、結局自立していくし、財産も親とは別々だ。子供は、成人したらその所得から親にお金を払う法的義務はないが、国や地方公共団体には納税の法的義務がある。育った子供から果実を得るのが親ではなく国家社会であるのだから、子供を育てるのは、親ではなく、本来、社会である。親は一時的に、子育てを託されているにすぎない。

したがって、日本ではまだ(特に高齢保守層で)大多数の、あの胸クソ悪い連中つまり「子供は三歳までは母親が育てるべきだ」とかいう連中について、私は知性のカケラもない大馬鹿野郎にしか見えないのである。そうした連中は、社会のことがまったく見えていないし、国家とは何か、という哲学的思索の痕跡はもとより、高卒レベルの世界史も脳から消えているのは間違いない。

子供は社会が育てるべきだ。子供の貧困対策法が全会一致で成立したことからもそれは明らかだ。ただし、愛情だけは周りの大人(親とは限らない)が精一杯注いであげないといけない、それは、口角を上げて優しく微笑えみ、肯定に満ちた言葉をかけるだけの演技でもちろん構わない。

2013年6月19日水曜日

ニートの護憲と小さな現金商売

ニート、つまりどこからも雇われていない、学校にも通っていないそういう風にレッテルを貼られた人々が、過去最高に達したというニュースを聞いた。

私は、今の世の中、働けばブラック企業や気疲れ、学校に行けばいじめや借金苦(高い学費を払っても得られる技能はなく、就職もむずかしい)と、ろくなことにならないわけだから、むしろニートは生存本能的には正しい選択だと彼らを高く評価・支援したい。

高齢の親は、既得権益や数の論理で得た手厚い社会保障のおかげで、ぬくぬくと暮らしているのだが、家にいる子供に「何とかしろ」みたいなプレッシャーを与えがちだ。ところが、法律では、まずはニートの生計は同居の親が面倒見ないといけないことになっている。したがって、親がなんと言おうと、法律に書いてあるんだから、ニートは後ろめたさなど一切覚える必要・道理はなく、親に堂々と甘えなければならない。

ニートは、働いていないし、教育機関に通っているワケでもないことから、「家で何もしていない人」と思われがちだ。しかし、これは完全に間違っている。なんにもしていないわけがない。いろいろしている。

たとえば、というか、彼・彼女らはもちろん、生活している。朝(夕方)起きて、食事をし、コンビニ行くかもしれないし、DVD借りにレンタルビデオ店へ行くかもしれないし、ブックオフに行くかもしれない。もちろん、ネットを見る。したがって、水道光熱を消費する。そして、親が作った飯を食べて、排泄をする。ニートは、ニートである前にまさに生活者であり、消費者である。つまり、ニートは何もしていないのではなく、消費して生活をする納税者である(ただし消費税)。

したがって、私たちは、不作為を理由にニートを軽蔑するのは間違っている。

ここで、ニートに提案したいことがある。豊かに暮らして幸せになるべく、次のような実践をしてみてはどうか。

というか、その前に、貧しくて不幸せな人生というのはどんな人生なのかを考えてみたい。ところがこれはむずかしい。よく言われているように、不幸は不幸の数だけある。それに対し、幸せの姿は、ひとつしかない。結婚して、暮らすのに困らない金を稼ぎ、健康に暮らして人生をまっとうすることだ。

では本題に戻り、ニートが幸せになれる国を目指す私の提案を聞いて欲しい。

まず、憲法改正には絶対に反対しなければならない。バカげた自民党は新自由主義といって、とにかく政府に金がないから、弱者、若者に金が行かないよう気を配っている。彼らを国政に送り出しているのは、田舎の高齢者であり、ニートなんてもってのほかだと目くじらを立てている連中だ。そいつらの魂胆通り、憲法変えられれば、まずニートの幸福は絶対に担保されなくなる。

ニートはまず憲法改正に反対すべきというのは、唐突かもしれないが、息をしたり、生活したり、ネットで好き勝手書いたりできているのは憲法があるおかげなので、これは忘れないことだ。

つぎに、現金でもらえる小さな商売をはじめてみよう。客は、企業ではなく個人がいい。たとえば、子供の世話や、勉強を教えたりする。野菜を育てて、販売してもいい(ただし、最近いきなり呼び鈴を押してくる押しつけがましい「青森から来た八百屋なんですが、リンゴいかがですか」とか、白々しく笛を吹いて豆腐を売るあの連中になるのはダメだ)。パソコンを直してあげるのもいい。
現金で小銭をもらう商売は、漁民農民と同様、税務当局が所得を把握するのは極めてむずかしい。これはどういうことか? ニートの幸せと、どんな関係があるのか。じつは、護憲のほかに、税金や社会保障費を負担しないというのもニートの作法として重要だ。

もちろん、こう考える人もいるかもしれない。すなわち、「税金や社会保障費は、国民が当然負担すべきだし、働きもせず金がないからとこれら義務を果たさないのは、恥ずかしいことだ、非国民だ」と。じつはこういうふうに考える人こそ、日本では多数派である。しかし、こういう多数派は、いざ、グローバル経済とか、ITの進展であっさり仕事を奪われると、行き場を失って自殺してみたり、生活保護が恥ずかしいからと飢え死にしたり、妻に愛想を尽かされて熟年離婚を言い渡され、さみしく公共図書館で昼寝し、最後は孤独死するタイプに他ならない。これは、政府与党や官僚、大金持ちからすれば、まさに理想的な奴隷だ。こういう奴隷ばかりなのがこの日本であり、ニートはダメというのは、じつはこうした奴隷根性から来るルサンチマンに満ちた思想なのである。

あなたが若者で、もし、ニートに対して批判的な考えを持っていたら、十分注意したほうがいい。すでにだいぶ奴隷になっている危険がある。(もっぱらブラック企業で)働いて、納税する、義務は果たす、それは憲法に書いてある国民のやらないといけないことである。私は、この部分を否定する者ではない。そんなことは、言っていないし、どうでもよいことだ。憲法にそう書いてあるんだからどうこういったってはじまらない。そうではなく、これが出来ない人たちを恥ずかしいとか、やれニートだなんだと批判的なことを考えてはいけないということである。さっきもいったが、ニートは若者が生き延びるひとつのスタイルであり、サバイバル術なんだから。

ニートがそのまま幸せになるため、したがって、納めることのできない税金や社会保障費は納めない。それ以上でもそれ以下でもない、ここでストップする心構えを持つべきである。

ちなみにニートは結婚して子供を産むと、さらに税金や社会保障費を節約できる。子供が何人いるかによって、給与所得控除額が変わってくるし、児童手当などももらえる。夫婦でニートだと、社会的インパクトは(負の方向に)大きい。

2013年6月8日土曜日

アベノミクス終焉、私の感想

人口減少著しい、子育て世帯冷遇つまり、将来の消費者を育てようとしない高齢者のこの国で、アホな政治家の馬鹿げた政策があっという間にはじけた模様だ。

デフレは高齢者が持っている金の価値を高め、経済が停滞する性質をもつわけだから、まずはこれをインフレに持っていって、経済を活性化しようとした。

そのためにお札をたくさん刷って(異次元金融緩和)、短期にバブルを起こしたが、とてつもないシステムトレードのロスカットなどが高じて相場が突然乱高下をはじめ、今週、アベノミクス前の相場にもどったことが決定的になった。

私は、株も不動産も金融資産も持っていないし、一方的に物価が上がって、しかも景気がいいので消費税もこのまま上げられようとしている。単に、暮らしにくくなっただけである。仕事も、輸入が多いので、円安でとんでもないことになった。

こうして、私はなんの恩恵にも浴することなく、アベノミクスは終わろうとしている。全体的に徒労感だけが残った。

こう感じている人は多いと思う。結局、一部の不労所得者(株を持っている高齢者や年金基金や、外国人)が、ずっと塩漬けだった日本株がわーっと上がったんで、いっせいに売って利益を確定し、オシマイってところで。いったいなんなんだろ。ネグリの「帝国」でも読むことにしようかね?