2016年3月24日木曜日

年金も税金も払いたくない

池田信夫氏のブログを読んで、ほとほと年金も税金も払いたくないと思った。




一言でいうとこの国では、豊かな高齢者に貧しい若者が借金までしてお金を仕送りしている。

なのに政府は教科書などを通じて若者に「国を愛せ」「郷土愛」「美しい国」とドヤ顔。マジ、日本はナニサマなのか?アホか?ジジイが若者をとっ捕まえてSMプレイか、これは。

「日本死ね」という話題のキーワードがあるが、結局若い子育て世代は、自分の子供の養育費だけではなく、見ず知らずの高齢者(豊かで資産持ちが多い)にもお金を仕送りしなければならないという、江戸時代の年貢のような不条理な世界で生活を余儀なくされているのだ。

この「保育園落ちた、日本死ね」にたいし、「日本死ねなどと言ってはいけない」とその言葉遣いや表現をディスる勢力がいるが、この勢力に対し、病児保育NPO代表フローレンスの駒崎氏が上手いこと言った。
おぼれそうになっている人が、「助けて、浮き輪早く投げて」と言っているのに対し「言葉遣いがどうなんだろう?」といっているようなもの
喫緊の課題なのに、変な論点ずらしで批判したってまったく意味がない。

私は4人も女児を養育していて、毎日、世間一般のお母さんたちがやらされている「仕事」(子育て家事育児)をしているけれども、その仕事内容(片付け、掃除、各種世話、ケア、病院送迎、習い事送迎、安全確保、食事の準備、生活消耗品の補充)はジェネレーションXという小説(ダグラスクープランド)の3Kワークそのものだ。低賃金、低未来、低名誉。

NHK(私が1995年に入社試験であっさり玉砕した日本の著名なテレビ局)のアナウンサーが、「お母さん、本当に子育て家事に頑張っているんですよ」などと言うのを聞くと、今さらながら、そういうことを言う立場になれなかった自分の人生の失敗を思い暗くなる。

毎日取り組まなければならない仕事(私の場合は家事育児、経理など)の内容がつまらないというのはたぶん、人間の「脳」にとっても絶対によくないと思う。もちろん、忍耐力といった非認知能力を鍛えるのにはいいんだろうけど。この仕事がずっと続くんだったら、そんな非認知能力をいくら高めたところで、何に使うんだろう?

大学時代に知り合った優秀な女性がいるのだが、男選びにつまづいて、最近、シングルマザーになった。いま、仕事は非正規で、学校の給食調理室で働いている。毎日、巨大な鍋を22個、手で洗う。みかんが出る日は、数百個のミカンを一個一個水洗いする。その仕事の過酷さもさることながら、現場の同僚のドキュンぶりもひどいらしく、本当に泣けてくるという。

私も、日本というダメ男にとっ捕まったあげく捨てられたシングルマザーになった気持ちだ。

2016年3月23日水曜日

改憲=ナチスドイツ化。

「非モテ」(異性にモテないこと)「非リア」(就活失敗や職業キャリアの不成就)などを理由に思春期からアイデンティティをこじらせたまま大人になった一部の学者や弁護士らが、もっぱら政治や法律に疎い一般の女性に分かりやすく改憲の必要性を説く任意の集まりがあるという。

○○カフェーとか言って。そこで、ベーカリーカフェのオーナーとして、そんな連中に「カフェ」という言葉を使ってほしくないという思いから、今回は執筆することにした。

そういうカフェには、女性を中心に一般市民が集まり、改憲しなきゃダメだと「洗脳」される。

さて、改憲を画策する保守系右派の連中が最近訴える改憲の必要性の根拠として、「緊急事態条項」というのがある。緊急事態条項は、確かに他の国の憲法にもあるにはあるが、裁判所や国会が厳重にチェックするようになっている。しかし、自民党の改憲案では、結局、なにか国がやばい感じになったら(治安が乱れたらを含む)、政府は好き勝手に法律を作って、事態に対処できるとなっている。ヤバいこれ。

高齢者ばっかりひいきして、子供の保育士に給料を増やすのに必要とされる金額よりちょっと多い3800億円を、選挙対策でばーっと高齢者に配ってしまうような政府。

冒頭の、アホで哀しい改憲論者の話に戻るが、おどろくべきことに、先の東日本大震災のときに、もし改憲していれば、死者の数はもっと少なかったとかいってる。いったい、1万人以上の、亡くなった方のうちどなたが、この改憲でもってどう、救われたというのか、是非とも具体的に教えてもらいたい(訊かないけど)。

ところで緊急事態条項は、ナチスにユダヤ人大虐殺の道を開いたワイマール憲法下にも立法化された。ニュースステーションでやっていたけど、ワイマール憲法自体はたいへん民主主義的な憲法で、ナチスも結局、普通のドイツ市民が自分たちで選んだ代表、それがヒットラーだったということ。それで、ヒットラーが緊急事態法を可決成立させてから、どんどん警察や軍隊が凶悪化していき、400万人を虐殺するという世界史上まれに見るホロコーストを導いた。

ある収容所を解放したアメリカ軍は、収容所の中の惨状を見て言葉を失った。全員、ガリガリに痩せていて、ほとんど裸。腐乱死体はそこらじゅうに転がっている。機転を利かせたアメリカ軍は、近所に住むドイツ市民を収容所ツアーに「招待」。普通のみなりの奥さん、それこそコートも着て、ヒールも履いているような、まったく普通の市民たちは、収容所内の様子に驚愕して失神したり、「こんな風になっているとは知らなかった」と口々に自己弁護。

これに対するユダヤ人の言葉「いや、あなたたちは知っていた」。このニュースステーションのVTR、怖かったー。

しかし、その冒頭のアホな連中がオッパじめようとしている憲法改正とか、緊急事態条項の充実とか、結局、また世界史上に日本が「汚点」を作る原因になりはしないかね? そういう事態になって、その何とか「カフェ」に集まって「分かりやすく」改憲の必要性を信じ、改憲に傾いた一般市民は、「知らなかった」とかいうの? それじゃマズくね?



2016年3月19日土曜日

非認知能力

 今日は、自分が28年前に卒業したその中学校、人口減少も津波も来なかったからまだ無事に28年前と同じ校舎・建物が同じ場所にあるわけだが、東京の西の「ふるさと」の某公立中学校で娘が卒業式を迎えた。
 「ノーメイクで見るに堪えない」(古市憲寿)中学生たちの歌声が響く体育館。足下が寒くて痛くなるほどである。四歳の娘を連れて、最後列から2番目というテンションの低さ。持っていったkindleで『「学力」の経済学』中室牧子著を再読する。式典が9時過ぎから11時40分くらいまでの長丁場だから、いい読書の機会だ。
 『「学力」の経済学』では、認知能力と非認知能力について取り上げ、著者は非認知能力の重要性を力説していた。テストの点数よりも、幼少期に目の前に置いてあるマシュマロを食べずに我慢できるかどうかで将来の年収や持ち家かどうか、逮捕歴などに有為に影響するという。点数が高いことは、認知能力、要は数値化できるから認知できる、そういう能力のことである。学校教育では、表面上はこの認知能力をテストで測定して生徒の優劣を測り、また進学先もその認知能力の高低でレベルが分かれていく。もちろん、認知能力が高い=学歴が高い方が年収は高くなるのだが、同じ学歴層でも、非認知能力が低ければ成功はおぼつかない。
 早稲田や東大にもいた。彼女も作れない。クラスメートと目を見て話もできない。就職活動は全部ダメ。
 ちなみにこうした社会的能力が今ひとつの人の多くは、たぶん自閉症スペクトラム障害だろう。だから本人や、その親を責め立てることは絶対にできないししてはいけない。
 アスペやADHDのひとは、非認知能力を高めるったって、これは難しいと思う。中室さんの本を読みながら、いやアスペルガーの私の場合、部活とかボランティア活動といったテストの点数以外でなにか優劣を測られたら人生一巻のおしまいだと思った。点数だけでいいじゃーんと。でもダメみたい。もちろん、だめだろう。
 非認知能力は、家庭のしつけ(ルールを守る、他人に親切にする、ウソをつかない、勉強する)がしっかりしていると高まるともいわれている。非認知能力が低い人は、高い人にくらべ、年収が低いというアメリカの追跡調査の結果を見て、自分もまさにそうだと思った。私の年収は自治体に「要保護水準」と認定されるほど低い、てへ。働かないでたらふく食べたーい!
 ここで、非認知能力とは具体的にどのような能力なのか。確認しよう。
「自制心」
「やり遂げる力」
 こりゃ私いちばん苦手の2つ。集中を要求されると一秒で気が散る。爪を噛む。別のことをはじめる。自制心ゼロ。ライフハッカーいくら愛読しても実践続かない。やり遂げる力はもっとヤバい。正直何もやり遂げていない。全部中途半端。
 学校生活もじつに耐えがたいものだった、部活もやめた。会社も辞めた。
 高学歴でも、非認知能力が低いのなら、ややがっかりなキャリアになるってのはもう私の存在が圧倒的な「証拠」。
 さて読者のために、では、どうやったらこの非認知能力を鍛えられるのか、ということに触れたい。
 きちんとしたしつけをしてもらえば、非認知能力は鍛えられる。勤勉性や誠実さが涵養される。当然、そういう人は社会でも上手く交渉して信用され、やり遂げられる。もちろん、部活動や、ボランティアなどの課外活動も、非認知能力を鍛えるすばらしい機会だ。
 今さら、どうせアスペルガーだし、そんなの意味がないと思ってはいけない。そんな風に、枠を当て嵌めるようなことを自らに課すのは、脳という天賦の宝物をみすみすゴミ箱に捨ててしまうようなもの。非認知能力は筋肉と同じように、反復と継続でどんどん鍛えることができる。本によれば、「先生に背筋を伸ばせといわれて続けて、それをその通り忠実に実行し続けた生徒は成績の向上が見られた」と書いてあるほどだ。
 私のような偏屈で、非認知能力に欠けたアスペルガーの中年でさえ、最近、非認知能力を鍛えてもらって、効果が上がった実体験がある。
 近年、私の会社の売上は対前年割れを起こし続けて、やばい感じになっていた。そこで一念発起し、ある会社にお金を払って、経営指導のようなことをしてもらった。その指導する「先生」は、毎週のようにやってきて私と面会し、具体的な経営改善のための施策作り、実施状況の確認、改善点の洗い出し、改善、効果の測定をそれこそ体育会系の部活のように継続反復した。
 半年経って、見事、売上の対前年割れを脱し、それどころか、前年の倍以上にもなった月もあるほどである。
 私が、テストでいい点を取る取らないとはまったく関係ない。その「先生」のしつけを素直に受け入れ、指導を実践して、日々の単純作業に倦まずに向き合うことで達成されたものである。もちろん、その先生の指導するノウハウ、内容なんてビジネス書やネットにいくらでも転がっているし、既知のことばかり。やればできると思っていた。
 しかし、そのやればできる、ということを知っていることと、実際それを「やり遂げる力」はまったく別だ。実際、やればできるの、「やる日」というのは、先生に金を払うまで私を訪れることはなかった。緊張感のある外部第三者に安くない金を払って、「先生」と毎週面会してはじめて、その「やり遂げる力」が引き出されたのである。
 さて、かように非認知能力がいかに大事か、本や実体験から痛感しながら、この中学校の寒い体育館で行われているセレモニーをあらためて眺めてみよう。
 生まれてから今日まで、ずっと学校の行事やこうした入学式、卒業式を、もっと重要な問題(格差、年金破たんなど)を何となく厳かな象徴(国旗や歌など)で隠蔽する愚民統治のための思考停止イベントだなと、そういう見方ばかりしていた。
 しかし、今のわたしからすると、それはもはやあまりに一面的な見方に過ぎなくなった。長期的には、このセレモニーに参加することで培われる非認知能力も、重要である。セレモニーでやっていることそのものの短期的効果(そんなものはじつはほとんどない)ではなく、そういうセレモニーに参加するにあたって事前に行う練習や、当日長い間じっと座って耐える「苦行」、その経験。心の筋トレと思えばいい。
 ただ、このことをもって、学校の部活動や家事などの営みを神聖・絶対化し、それさえやれば儲かるだの、人生成功するだの的なことを言うつもりはまったくない。残念だが、義務教育の部活や式典は格差の上も下も皆通過する儀礼である。それでも今の日本は、差が付いて、高齢者と若者、富裕層と貧困層の溝が広がる「分裂国家」のようになってきている。
 部活もやった、学歴も身についた、社会に出た、給料も高くなってきた。でも、気がついたらお年寄りが支配する政治のせいで、稼ぎの2割は家賃、1割は大学授業料の学生ローンの返済、さらに全体の半分は年金と医療保険と税金で持って行かれちゃってる。これじゃあ今の若者はやりきれない。つまり、何も問題は解決しない。私はこのことは強調したい。培った非認知能力を使って、今度は社会の問題を解決する段階になっている。熟議の機会を持つ必要は高まるばかりだ。つまり私は引き続き、ベーシックインカム、そして大学授業料の無償化を訴えていきたい。
 「学力」の経済学でも、就学前教育にお金を投資するのがもっとも効率が高いことが証明されている。ところが実際はどうか。いちばん投資効果のない大学教育費が最も高くなっている。これは絶対におかしい。今日は公立中学の卒業式参加という「筋トレ」をこなしたので元気いっぱいで叫びたいが、大学授業料は一秒以内に無償化にすべきである(あわせてすべてのゼロ歳から6歳までをちゃんと教育する保育施設に国家予算を付けて無料で収容すべきだ)。

2016年3月17日木曜日

公職はバカと暇人のもの

杉並区の保守系区議が「保育園落ちた、日本死ね」とのつぶやきに「暴言」「便所の落書き」と批判したという。何でもこの区議は、日本をそんな風にいうなんて(倫理的に?)許されないと本気で思っているようだ。大丈夫か、こいつ。というか、この日本死ねが便所の落書きなら、この区議はその便所に流される「クソ」そのものというイメージが正しい。お食事中の方すいません。

国会で、この問題をある野党の女性議員が質問中に、与党のジジイ議員からヤジが飛んでいた。

この区議にしても、国会のヤジを飛ばしたクソジジイにしても、本当にバカでゴキブリ以下だといわざるを得ない。もはや公職はバカと暇人のものに成り下がってしまったのだ。ただし暇人とはいえこの場合は、高齢の有閑富裕層といった方がいいだろう。

とはいえ、じつはこの現象(=公職がバカや有閑富裕層に寡占されている)はもう何十年も前から、法律のほとんどを官僚が作り始めて以来、始まっている。行政国家現象という。議員は特定団体の利益代表に過ぎなくなり、社会全体をよくしていこうという志は、次の選挙に当選するための諸工作に劣後する。

この救いがたい腐敗公職を改革する私の提案は、すべての公職を公立学校PTAのお母さんお父さんの持ち回りにして、報酬は裁判員程度のものとすればよかろう。

PTAの会合では、国会で見られるようなヤジはまったく聞かれない。言い出せる雰囲気ではない。

どうせ仕事は官僚がやってるんだから、キモいジジイに高額報酬を払うよりも、子育てで苦労しているお母さんにパートよりちょっといい報酬を払ってやってもらうのがかろう。

そして、数年後、今言われているのは2025年くらいまでに、その官僚も人工知能に置き換わるといわれている。ポスト官僚たる人工知能とお母さんが「活躍」することで、このだめ社会の抜本的な改革ができる。

2016年3月10日木曜日

正味3分の事務をやるのに子育てしながらだと7倍の21分かかった件

 通常はわずか3分で終わる事務。具体的には、ある書類を出力してスキャナで読み取り、サーバにアップしてメールで連絡するといったような内容である。書類を出力した時点でアラームが鳴った。子供の送迎の時間だ。徒歩1分くらいのところに、幼稚園の送迎バスが来る(子供が4人いるのでもうこれ、間を空けて12年以上やってる)。
 外は雨が降りそうな気配。ジャケットを着て、傘を持っていかなければ。ジャケットを着て傘を持って、外に出て自転車を出したところで幼稚園のIDカードを忘れたことに気が付き、家に戻る。IDカードを首に掛けていないと、子供を引き渡してもらえない。およそ40秒くらいそれでロスする。
 IDカードは家の決まった場所にあるのでそれを取って首に掛け再び出発。近所ではコーヒー屋台が出ていたので、そこでバスがくるまでのわずかな時間にコーヒーをテイクアウトで注文する。
 450円。本当は領収書が欲しかったのだが、いい感じにアナログを徹底し、炭火でお湯を沸かすコーヒー屋台のお姉さんにそれをいったら時間もかかるだろうし、何より無粋なので今回は諦めた。税引き後の所得からの支出になってしまう(領収書があれば、法人の費用になり、税引き前所得からの支出となる)。
 いよいよバスが来る。子供が降りる。いつもの保育士のお姉さん、あいかわらず疲労の色が。笑顔も薄く、「さようなら」。給料安いんだろうな。さて。子供はまだ年少なので、常に非定型のオファーをいってくる。今回は、自転車のチャイルドシートに座るのではなく、サドルの前のフレームに立って帰りたいと訴える。やむを得ずそうさせる。するとコーヒー屋台のお姉さんが注文したコーヒーをもって来てくれた。片手に激熱コーヒー。片手に子供がフレームに乗って不安定状態の自転車。突然の修羅場だ。こうした小さな判断の回数が、人間が1日にできる判断の総量を確実に消費していくことを私は知っている。
 徒歩1分の距離を、自転車にもかかわらずむしろ歩いたほうが早いほどの遅さで、1分以上掛けて帰る。
 家についたら、チャリのフレームが子供の靴の底に着いていた砂で汚れていることに気が付きげんなり。しかも子供の靴はだいぶくたびれていて、マジックテープが機能しなくなってる。買い換える時期だ(買い物リストに記入しなければ)。となると、サイズは何だろう、サイズをメモしたほうがいいのだろうか? 判断しないと。
 家に入ったあと、子供がなにやら手に持っている。家の前に生えていた雑草を摘んで水に浮かべるんだという(これはいつもお世話になっているベビーシッターさんのアイディア)。カップはこれでよかったのか。雑草を水に浮かべるコップとして、白い磁器の器を選んだが、透明のガラスコップのほうが良かったのかな(判断ミスか?)。
 帽子を脱がせて帽子掛けに掛ける。コートを脱いで、コート掛けに掛ける。次は手洗いをさせる。手洗いのあいだに、雑草を水に浮かべて子供に差し出す。
 コーヒーを、カップに移して、空いた紙コップを、子供がめざとく見つけ、風呂で遊びたいという。洗って風呂場に移動しておく。そうすれば、風呂に入ることをいつも面倒がって嫌がる子供のインセンティブになってあとが楽だという判断である(あ、また判断しちゃった)。
 手洗い後、名札を取って、幼稚園鞄の中に入れる。幼稚園鞄の中から、コップと汚れた箸、フォーク、スプーンを取り出して流しに入れる。これあとで洗おう(と、判断)。
 妻が、おやつのホットケーキを焼こうとしたのだが、フライパンが所定の位置にない。同居の母親に貸したままであることに気が付いて、別の階のキッチンにフライパンを取りに行く。
 これでようやく、元の事務所の席に着くことができた。ストップウォッチを見たら、最初の業務開始から、21分経っていた。首に掛けっぱなしのIDカードを、元合った場所に戻さないと。

2016年3月6日日曜日

NHKスペシャルが震災後5年特集でアツい!

 NHKスペシャル、行ったこともないんだが、経験したこともないんだが、まるで自分が体験しているような大迫力で、現代社会で起こった様々な事象を味わえる。
 ドヤ顔でこうだった、ああだったというのは野暮というものだが、次世代の教訓になるようなネタは書いておきたい。
 今日見たのは、原発事故で翻弄される、原発から30キロ圏内の人々の記録。
 「避難しろ」で、寝たきり高齢者の何人かは亡くなってしまった。避難所で、ヨウ素剤があることを知っているのに配れなかった自治体の職員の中には、PTSDにかかる者も出た。
 屋内退避でロジスティックスが国交省の指示でストップした結果、生活物資がなくなってしまい、結局町の判断で住民の8割が避難した南相馬市。避難できなかった2割の人たちのほとんどは弱者で、何人か亡くなったし、ゴーストタウンで食糧も尽きていく恐怖を味わったご家庭も。
 これらのことからわかるのは、地方、とくに、なにか自然災害があったときに物流や避難の経路が脆弱な地域に居住することがどれだけリスキーかである。もちろん、緩やかに死のうと思ってそうするのは個人の自由だが、家族はどうか? 従業員や、従わざるを得ない関係者のことを思うと、慎重に考えなければならない。
 国も自治体も、国民が税金を払って、国民の安全や生命を守ってくれるよう、期待してそこを任せている。ところが、震災に見舞われた福島のケースを観察して明らかになったのは、そうした国の救急救命政策の機能不全と、誤った情報で国民を翻弄して、知らんぷりのままだったというていたらく。
 今の安倍政権を見ると、避難についての本当に実効性のある計画が整っていなくても、どんどん原発を再稼働している。短期短期でしか政策や制度設計をしていないということは明らかだ。
 こうなると、もう本当に自分の身は自分で守らなければならないという感じで、しかもそれにかかるお金は税引き後の所得から工面するのはじつに苦しい。
 私は、物心ついた頃、チェルノブイリ事故を知った。親がサヨクだったので、もう危ないおしまいだと大騒ぎ。トラウマになった。だから、原発が、タイムボカンシリーズのエンディングみたいにポンポンと爆発した2011年のあの日は、原因不明の全身痛に見舞われ、心底恐怖した、この東京で。
 結局、本当に安全に暮らしていける場所というのはどこなのか。自治体や、商業施設がどうなっているのか。気をつけないと安心できない。うちの近所のドラッグストアも、スーパーも、ガソリンスタンドも、震災の後しばらく、品薄だったり大行列があったりして、憂鬱だった。
 まあしかし私がそれでも疲弊した、過疎地方に心惹かれるのは何だろ。こういうサバイバル状態がすぐそばにあるという、「男の子」魂をくすぐって止まないスリルだろうかね。不謹慎かも知らんが。今日も毎日生き延びたっていう、普通に暮らしているのに、地方だとそういう満足感が味わえそう。東京だと、普通に暮らして生き延びるなんてのは当たり前で何の変哲もないが、地方で人里離れたヤバいところで暮らしすってのは何ともいえない開放感と、生の充実感に満ちていそうでたまらない感じ。ソローの森の生活の影響です、はい。

2016年3月5日土曜日

クレーム対応 怒りを鎮める3つの段階

今日は、激怒してクレームをおっしゃられるお客様に向き合うときの3つの段階について考えてみたい。これは、某経済系教養番組を参考に開陳するもの。

クレーム対応の3つのプロセス

  1. 相手の話をしっかり聞く
  2. お詫びする
  3. 相手の立場に立って共感する
以下順番に説明しよう。

相手の話をしっかり聞く

お客様は、ご多用のところ自社の商品のせいで貴重な時間を割いてわざわざクレームを言いに来ている。したがって、その気持ちをまずはしっかり受けとめることが怒り鎮火の前提となる。
  • 承知いたしました
  • 私がうかがいます
  • 申し訳ありません
  • (お客が述べる言葉をそのまま繰り返して)○○ということなのですね、わかりました
  • はい、おっしゃるとおりです
  • その通りです
  • 間違いありません

お詫びする

クレームを言う客が直接来たということは、少なくともその時点では、裁判所に損害の賠償を訴えて、損害を金銭的に補償してもらいたいと思っているわけではなく、要は謝ってほしいからやってきている。したがって、最善の策は平身低頭にお詫びすることである。
  • 申し訳ございませんでした
  • お詫び申し上げます
  • すみませんでした

相手の立場に立って共感する

前段の2項でだいぶエネルギー(アドレナリン)を消耗したクレーム客は、この時点でだいぶおとなしくなっている。ここでは、感情的な爆発は収まり、「で、どうしてくれるんだ」(どんな損失の補填をしてもらえるんだ)という気持ちがわき上がってきている。そこですかさず、相手の立場に立って、自分だったらここでどうしてほしいのか、その欲求を先回りしてこちらから充足させる。
  • おいしく召し上がっていただけず、本当に申し訳ありませんでした
  • なにか、具合が悪くなってしまいませんでしたか?申し訳ありません
  • たいへんなご不便をおかけしてしまいました
  • きちんとやりとりをできず、さぞご心配だったことでしょう
  • ご心配(ご迷惑)をおかけしました
  • お体は大丈夫ですか?
  • お怪我はございませんか?
→いますぐ、代わりの物をお出しします
この段階では、共感の言葉の直後に、欲求充足の具体的手続きを約束することが重要だ。「いますぐ」「直ちに」「速やかに」「本日中に」「明日までに」という、期限に続き、損失を補填する具体的提案を述べる。

クレーム対応の本質

怒ったお客が乗り込んでくるようなビジネスはおおむね小売りサービス業に多い。地域に密着し、リピート客がおおい、顔の見える商売である。そうした商売は、薄利多売で、個々の取引は小さいかもしれないが、取引件数が多いビジネスの性質上、どうしても金額とは無関係に巨大化した客の感情と向き合わなければならない場面が多くなる。
わずか数百円のことで、なぜこれほどまでにいわれなければならないのか。これは、クレーム対応する者が最初に感じる理不尽なおもいであろう。しかし、その数百円のために謝るのではなく、謝ることが、このビジネスそのものなんだ、仕事なんだと思えばまだいい。
こちらが原因で客の怒りを買ってしまった以上、すみやかにお詫びして責任を取る。要はそういうことである。客は怒っているんだから、まずはその怒りを上記の方法で鎮めて、明日もまた、仕事をしなければならない。

クレームをいうときは?

お金を払って物を買うんだから、自分は偉いんだと思ってしまう人が多い。しかし残念ながら、売買契約では、契約の双方どっちが「偉い」とか「上」とか、「優劣」は書いていない。つまり、売買契約の当事者は対等の関係である。
したがって、怒ってしまって上から目線で怒りをぶちまけた場合、時としてそれは新しい法律行為(犯罪ともいう、土下座強要など)に発展してしまう危険がある。
まずは、6秒間、じっと数えよう。そして、自分の状況を、「ハエの目線」から見直してみよう。そうするとだいぶ怒りが収まり、回収できる損害、これがあるのか、ないのか、あるならいつなのか、これについて冷静に相手に質問できるようになる。

2016年3月4日金曜日

マイナス金利は資本主義終焉の決定的証拠

今般、日銀が採ったマイナス金利の政策。これって、お金をあずけたら、金を払わないといけないということなのだが、おかしい。市中銀行は日銀にお金をあずける場合、金を払わないといけない。

おかしさは、借りる側から見るとさらに際立つ。金を借りて投資をして、そして投資の収益の一部から利子と元本を返済するのが普通の金利。マイナス金利とは、金を借りたら、何もしなくてもお金を払ってもらえる。するとどうなるか。金借りたら誰も何もしなくなる。銀行ニート状態。わざわざ誰も投資をしなくなる。借りるだけ。おしまい。だって借りたらお金がもらえる。

新規の投資が無効ということだから、資本主義がフロンティアを開拓してどんどん新規の投資をして自ら拡大増殖していくシステムだとすると、結局資本主義はもうあかんという意味になる。

収奪の矛先がフロンティアにないならドメスティック(国内)に向かう。立場の強い、巨大な資本主義のシステム(企業など)は、立場の弱い者(一般消費者)からどんどん収奪していくことになる。

放っておけば、トリクルダウンも何も起きないばかりか、こういうふうに資本主義が牙をむいて国内弱者を直撃するわけだから、政府は、資本主義を鎮め、ヒトビトの安全と幸福が広く行き渡るよう、格差是正、社会保障重視の大増税、巨大政府社会主義に舵を切るべきだろう。

社会主義はいいすぎかもしらんが、私たちが今取り組むべきなのは、資本主義のソフトランディングをいかにさせるかである。

今、憲法改正がどうのこうのというが、私にいわせると憲法改正すればより、国家運営は資本主義的になる気がする。憲法なんてぜんぜん関係ないと思う。憲法は変える変えないという議論で、資本主義のエゴイズムの代弁者になっている政府与党は、本当の問題(永続できないことが分かっているものの、とりあえず四半期で前年対比増をしないと株主に対して面目が立たない株式公開企業ってどうなの、とか、あるいは、年金をもっと高額に源泉徴収しないと持たない年金システムってどうなの、しかも生活保護費より安いってのはどうなの、とか、四年ごとの選挙で勝たないと次の仕事がない政治家という職業ってどうなの、とか)から国民の目をそらす、だめだめな戦術である。