非認知能力

 今日は、自分が28年前に卒業したその中学校、人口減少も津波も来なかったからまだ無事に28年前と同じ校舎・建物が同じ場所にあるわけだが、東京の西の「ふるさと」の某公立中学校で娘が卒業式を迎えた。
 「ノーメイクで見るに堪えない」(古市憲寿)中学生たちの歌声が響く体育館。足下が寒くて痛くなるほどである。四歳の娘を連れて、最後列から2番目というテンションの低さ。持っていったkindleで『「学力」の経済学』中室牧子著を再読する。式典が9時過ぎから11時40分くらいまでの長丁場だから、いい読書の機会だ。
 『「学力」の経済学』では、認知能力と非認知能力について取り上げ、著者は非認知能力の重要性を力説していた。テストの点数よりも、幼少期に目の前に置いてあるマシュマロを食べずに我慢できるかどうかで将来の年収や持ち家かどうか、逮捕歴などに有為に影響するという。点数が高いことは、認知能力、要は数値化できるから認知できる、そういう能力のことである。学校教育では、表面上はこの認知能力をテストで測定して生徒の優劣を測り、また進学先もその認知能力の高低でレベルが分かれていく。もちろん、認知能力が高い=学歴が高い方が年収は高くなるのだが、同じ学歴層でも、非認知能力が低ければ成功はおぼつかない。
 早稲田や東大にもいた。彼女も作れない。クラスメートと目を見て話もできない。就職活動は全部ダメ。
 ちなみにこうした社会的能力が今ひとつの人の多くは、たぶん自閉症スペクトラム障害だろう。だから本人や、その親を責め立てることは絶対にできないししてはいけない。
 アスペやADHDのひとは、非認知能力を高めるったって、これは難しいと思う。中室さんの本を読みながら、いやアスペルガーの私の場合、部活とかボランティア活動といったテストの点数以外でなにか優劣を測られたら人生一巻のおしまいだと思った。点数だけでいいじゃーんと。でもダメみたい。もちろん、だめだろう。
 非認知能力は、家庭のしつけ(ルールを守る、他人に親切にする、ウソをつかない、勉強する)がしっかりしていると高まるともいわれている。非認知能力が低い人は、高い人にくらべ、年収が低いというアメリカの追跡調査の結果を見て、自分もまさにそうだと思った。私の年収は自治体に「要保護水準」と認定されるほど低い、てへ。働かないでたらふく食べたーい!
 ここで、非認知能力とは具体的にどのような能力なのか。確認しよう。
「自制心」
「やり遂げる力」
 こりゃ私いちばん苦手の2つ。集中を要求されると一秒で気が散る。爪を噛む。別のことをはじめる。自制心ゼロ。ライフハッカーいくら愛読しても実践続かない。やり遂げる力はもっとヤバい。正直何もやり遂げていない。全部中途半端。
 学校生活もじつに耐えがたいものだった、部活もやめた。会社も辞めた。
 高学歴でも、非認知能力が低いのなら、ややがっかりなキャリアになるってのはもう私の存在が圧倒的な「証拠」。
 さて読者のために、では、どうやったらこの非認知能力を鍛えられるのか、ということに触れたい。
 きちんとしたしつけをしてもらえば、非認知能力は鍛えられる。勤勉性や誠実さが涵養される。当然、そういう人は社会でも上手く交渉して信用され、やり遂げられる。もちろん、部活動や、ボランティアなどの課外活動も、非認知能力を鍛えるすばらしい機会だ。
 今さら、どうせアスペルガーだし、そんなの意味がないと思ってはいけない。そんな風に、枠を当て嵌めるようなことを自らに課すのは、脳という天賦の宝物をみすみすゴミ箱に捨ててしまうようなもの。非認知能力は筋肉と同じように、反復と継続でどんどん鍛えることができる。本によれば、「先生に背筋を伸ばせといわれて続けて、それをその通り忠実に実行し続けた生徒は成績の向上が見られた」と書いてあるほどだ。
 私のような偏屈で、非認知能力に欠けたアスペルガーの中年でさえ、最近、非認知能力を鍛えてもらって、効果が上がった実体験がある。
 近年、私の会社の売上は対前年割れを起こし続けて、やばい感じになっていた。そこで一念発起し、ある会社にお金を払って、経営指導のようなことをしてもらった。その指導する「先生」は、毎週のようにやってきて私と面会し、具体的な経営改善のための施策作り、実施状況の確認、改善点の洗い出し、改善、効果の測定をそれこそ体育会系の部活のように継続反復した。
 半年経って、見事、売上の対前年割れを脱し、それどころか、前年の倍以上にもなった月もあるほどである。
 私が、テストでいい点を取る取らないとはまったく関係ない。その「先生」のしつけを素直に受け入れ、指導を実践して、日々の単純作業に倦まずに向き合うことで達成されたものである。もちろん、その先生の指導するノウハウ、内容なんてビジネス書やネットにいくらでも転がっているし、既知のことばかり。やればできると思っていた。
 しかし、そのやればできる、ということを知っていることと、実際それを「やり遂げる力」はまったく別だ。実際、やればできるの、「やる日」というのは、先生に金を払うまで私を訪れることはなかった。緊張感のある外部第三者に安くない金を払って、「先生」と毎週面会してはじめて、その「やり遂げる力」が引き出されたのである。
 さて、かように非認知能力がいかに大事か、本や実体験から痛感しながら、この中学校の寒い体育館で行われているセレモニーをあらためて眺めてみよう。
 生まれてから今日まで、ずっと学校の行事やこうした入学式、卒業式を、もっと重要な問題(格差、年金破たんなど)を何となく厳かな象徴(国旗や歌など)で隠蔽する愚民統治のための思考停止イベントだなと、そういう見方ばかりしていた。
 しかし、今のわたしからすると、それはもはやあまりに一面的な見方に過ぎなくなった。長期的には、このセレモニーに参加することで培われる非認知能力も、重要である。セレモニーでやっていることそのものの短期的効果(そんなものはじつはほとんどない)ではなく、そういうセレモニーに参加するにあたって事前に行う練習や、当日長い間じっと座って耐える「苦行」、その経験。心の筋トレと思えばいい。
 ただ、このことをもって、学校の部活動や家事などの営みを神聖・絶対化し、それさえやれば儲かるだの、人生成功するだの的なことを言うつもりはまったくない。残念だが、義務教育の部活や式典は格差の上も下も皆通過する儀礼である。それでも今の日本は、差が付いて、高齢者と若者、富裕層と貧困層の溝が広がる「分裂国家」のようになってきている。
 部活もやった、学歴も身についた、社会に出た、給料も高くなってきた。でも、気がついたらお年寄りが支配する政治のせいで、稼ぎの2割は家賃、1割は大学授業料の学生ローンの返済、さらに全体の半分は年金と医療保険と税金で持って行かれちゃってる。これじゃあ今の若者はやりきれない。つまり、何も問題は解決しない。私はこのことは強調したい。培った非認知能力を使って、今度は社会の問題を解決する段階になっている。熟議の機会を持つ必要は高まるばかりだ。つまり私は引き続き、ベーシックインカム、そして大学授業料の無償化を訴えていきたい。
 「学力」の経済学でも、就学前教育にお金を投資するのがもっとも効率が高いことが証明されている。ところが実際はどうか。いちばん投資効果のない大学教育費が最も高くなっている。これは絶対におかしい。今日は公立中学の卒業式参加という「筋トレ」をこなしたので元気いっぱいで叫びたいが、大学授業料は一秒以内に無償化にすべきである(あわせてすべてのゼロ歳から6歳までをちゃんと教育する保育施設に国家予算を付けて無料で収容すべきだ)。

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